「 食わず嫌い 」
食べ物の好き嫌いは人それぞれでしょうが、最初から食べもしないで嫌いと決めつけている人がよくあります。そのような人に限って、他人がその食べ物を食しているのを見て、「よくこんなものを食べられるなあ、あきれたもんだ」などと文句を付けたがるものです。
ところが、ある時何かの拍子にそれを食べてみて、以外に美味しいのにビックリすると言うことも少なくありません。
これを仏教の食わず嫌いに例えてみますと、特に仏教では、食べる食べない、即ち、信じる信じないを強要したりはしません。
面々の計らいで信じればよし、信じなければそれも仕方ない、と言う姿勢です。これがイスラム教やユダヤ教になりますとそうはいかないようです。
自らが信ずる教えを至上の食べ物であるとして、無理にでも他人に食べさせようとします。(似たようなのはありますが・・)
仏教では、ここに美味しい食べ物がありますよと言って食卓、教えの入り口までは連れて行きますが、それを食べようとするか、信ずるかどうかはあなた次第、と言うところがあります。
このような姿勢が、日本人は無宗教だと思われる原因にもなっているようです。
しかしこのような姿勢のあり方は、日本人に向いている宗教観なのではないかと思われます。
その食べ物が、生きるために必要不可欠なものであったらどうでしょう。
好き嫌いは言ってられないはずです。
その宗教が、日本人にとっての仏教が、安心して死を迎えるための必要な食べ物だったらどうでしょうか。
どんな食べ物も食べてみなければその味がわからないように、至上の教えも、自分から進んで聞こうとしなければ、その善さが分からないと言うことになります。
中国4千年ならぬ、日本3千年の間に、血の中に、DNAにしっかりと仏教的発想が組み込まれていますからそんなに不味いものではないと思います。