「ほうらい豆」
私の親不孝話を聞きつけ、一冊の本をいただきました。
森 寛紹大僧正、高野山で管長という最高位まで出世された方の有り難いご本でした。
その中にやはり幼少の頃の親不孝話がありました。
明治時代のいい話です。
以下 無断転記 お許し下さい。
私の子どもの頃は母がバリカンで頭を刈ってくれました。子どもで痛いし、遊びたい盛りですから、じっとしてなんかいません。あっち向いたり、こっち向いたり母を手こずらせてばかりいました。母は母で、私の頭をぐっと握って、小言を言いながら刈っていくのですが、こうした時間が母と私の対話だったのかもしれません。 ところが、年に一度の秋まつりの日、お祭りだということでか、母が五銭くれ、「これで床屋にいっといで」と言うのです。
私は別に母の散髪でも不満ではありませんでしたから、床屋に行くことはどうでもよく、それよりも五銭もらったことに大喜びでした。五銭といえば、ずっしりとした白銅貨で、めったにもらえませんでした。それをしっかり握って、村の床屋へと駆け出したのですが、どうしたわけか、途中の駄菓子屋の店先で足が止まってしまったのです。
ちょうどお祭り用に、色とりどりの菓子を仕入れたのでしょう。普段、お目にかかったことの無いような菓子がガラスの四角い瓶にいっぱい詰められて、並べられていました。
もう,この頃には床屋に行くことなんか、すっかり忘れてしまっていたのです。そのガラス瓶の中でも一番目についたのが、大豆の表面に砂糖とメリケン粉をまぶしたほうらい豆という菓子でした。子供心にどうしてもこの豆を食べたかったのでしょう。貪り食ったのか、隠れて食べたのか、よく覚えておりませんが、我に返ったときは五銭全部がほうらい豆に化けてしまった後でした。
「さあ、どうしよう」
散髪をしないで帰ればすぐに分かってしまうし、いろいろと口実を考えてみたものの,仕方なく夕方近くになって家に帰り、母に「途中でお金を落としてしまい、今まで捜していたんだ」と嘘をついたのです。さあ、その後が大変。こっちは嘘をついているものですから、母の顔を正面から見ることができず、オズオズしていましたが、母はすぐに提灯を取り出してきて「しょうがないねえ、落としたんなら今から二人で探しに行こう。朝になったら拾われてしまうから」と言いながら、私を急き立てるのです。やはり、母ですね。てっきり叱られるのかと思っていたのに拍子抜けでした。床屋までの道を行ったり来たりして捜しましたが、ほうらい豆に化けた五銭銅貨は見つかるはずはありません。腰をかがめて少しでもよく道を照らしながら捜している母の姿が今でもまざまざと脳裏に焼きついてはなれません。本当のことが言えなかったのはあまりに熱心に捜しているので機会を失ったのか、それとも母が怖かったのか、おそらくその両方だったと思います。・・・・
以下、50年後母の墓前にほうらい豆を供え、お詫びした文が続きます。
おそらく母は知っていたのでしょう。偉い人の母も偉いのです。